キング・オブ・ソフトドリンク コカ・コーラが日本にやってきた





今となっては、当たり前のように飲むコカ・コーラという黒い液体。

この飲料が導入期においてどのように受け入れられ広まっていったかを今回は見ていきたい。


コカ・コーラの誕生

一日に19億杯飲まれる飲料。それがコカ・コーラである。


巨大資本をバックに鳴り物入りで市場に登場したに違いないと思うかもしれないが、それは誤りだ。


コカ・コーラの生みの親は、1886年にアトランタで薬剤師を営んでいたジョン・ペンバートン氏だ。彼が、健康ドリンクとして売り出したのがコカ・コーラである(健康ドリンクとして発売されたものが今やこれだけ目の敵されているというのは何とも皮肉な話である)。


当時のコカ・コーラはシロップとして売られており、それが炭酸水で割って飲むと美味しいということで、次第に広がっていった。


コカ・コーラの日本上陸

コカ・コーラは戦争を経て日本にやってきた。


当時は、エクスポート社というコカ・コーラグループの一社が駐留米軍への販売を担っていた。


米軍基地で米兵が美味しそうに何かを飲んでいるという怪しげな噂を聞きつけ、エクスポート社に乗り込んできたのが、後の日本コカ・コーラの生みの親髙梨仁三郎である。


髙梨はキッコーマン創業家の家計、髙梨総本家第28代兵左衛門の次男として生まれ、当時は醤油問屋から総合卸として事業を拡大していた小網商店の社長をしていた。


そんな髙梨氏が、販売権を獲得するのが1952年のことだ。


しかし、事態はそうすんなりとは進まなかった。


戦後まもなく外貨が不足しており、割当が厳しかった。そんな当時において不要不急の飲料に割当許可が出るには、なんと5年もの月日がかかり、実際の原液輸入は1956年まで待たなければならなかった。


コカ・コーラの販売スタート

ようやく輸入できても、髙梨の茨の道は続いた。


戦後復興の中では国内産業の活性化を奨励する動きが当然あり、日本で製造できないコカ・コーラなんかをどうして今輸入する必要があるんだという反対の声や、コカ・コーラを黒船のごとく怖れ敵視するものも多くいた。


そんな業界関係者に対して髙梨は


「コカ・コーラを導入することによって、清涼飲料業界全体のパイ(市場)を大きくする。パイが大きくなれば、サイダーもラムネもジュースも棲み分けができる」


と説得して回ったが、耳を貸してくれるものはほとんどいなかったという。


髙梨の前に立ちふさがるのは業界団体だけではなかった。外貨割当の代わりに農林水産省から販売条件・販売先・販売価格などについて厳しく制限をされており、さらに宣伝広告も禁止されていた。


当時のコカ・コーラは一箱(/24本)696円(ラーメン一杯40円の時代)で売られており、696円のうち156円は超過利潤として国庫に寄付しなければならなかった。


そのような四面楚歌の中での販売を余儀なくされ、コカ・コーラは有り体に言ってさっぱり売れなかった。


当時の日本におけるコカ・コーラ

髙梨が活躍した時代において、コカ・コーラは日本人の目にどう映ったか?


髙梨自身も、コカ・コーラの美味しさを信じて輸入を始めたわけではなかった。彼はコカ・コーラに対する最初の印象を「一種の薬くささを感じたものの、これまで経験したことのない味わいだった」と語っている。


髙梨の右腕として活躍した谷川もコカ・コーラを初めて飲んだときは、かなりの量を残したという。


当時、日本で清涼飲料水といえば、サイダー、ラムネ、バヤリースだけであり、そのなかで黒い飲料というのは、それだけでネガティブであり、独特な匂いも良くも悪くも新しいものだった。


危機と自由化と急成長

政府により孤立無援の状態に追い込まれていたコカ・コーラ事業をはじめ、髙梨は様々な新事業に着手していたため小網商店の経営は傾き、髙梨は責任をとって1957年に社長の座を退き、コカ・コーラ事業に専念することとなった。


資金面でも絶体絶命の状態に陥った髙梨は方々で金策に走りつづけ、ようやく融資にこぎ着けた。さらに、エクスポート社も髙梨の窮状を救うべく、原材料輸入の必要のないファンタの製造を任せ、ファンタの販売にともない次第にコカ・コーラの販売拠点も増えていった。


60年に入ると、農林省の斡旋で当時の三大業界団体、日本果汁協会・全国清涼飲料工業会・日本果汁農業協同組合連合会に企業合理化援助費という名のもと1億円が支払われることとなり、この費用をコカ・コーラとペプシコーラが出すことで、販売の自由化が認められた。


62年には東京コカ・コーラボトリング株式会社を興し、テレビCMなど積極的な販促活動を通じて、65年には1000万ケース売れるブランドへと変貌させていった。



ナマコを初めて食べた人は偉いと、多くの人が言う。

そして実際、その通りだと思う。ひいき目に見ても、食べたくなる外見ではない。


コカ・コーラも見た目の話だけでなく、戦後当時の焼け野原の中、様々な障壁を乗り越えて、輸入してこようと思ったのは先見の明があったというほかない。


髙梨が最初にコカ・コーラ事業をスタートしようと考えたのが1947年、「怪しげな男」から米軍基地での情報を得た時からとして、輸入許可をメーカー側から取り付けるのに4年、実際に日本に輸入できるようになるまで5年、自由な販売が許されるまでさらに5年の月日がかかっている。


自身はキッコーマン創業家の家元として帰るところはいつでもあるにもかかわらず、投げ出すことなくしがみつき続け今日の人気を築いていることを考えると頭が下がる思いである。


どんな状況下でも諦めることなく事業を回し続ける姿勢は企業としても見習っていきたい。


参考文献

コカ・コーラで5兆円市場を創った男~黒いジュースを日本一にした怪物髙梨仁三郎~』WAVE出版

太田猛 

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