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日本の禁酒運動






禁酒法100年目となる来年にむけ、禁酒運動についての記事を色々挙げているが、今回は日本の禁酒運動について見ていく。


日本で禁酒運動というとイメージがないかもしれないが、キリスト教とともに禁酒理念の価値観も日本に到来していた。


キリスト教布教に付随する禁酒理念

日本における禁酒運動の始まりは、1854年に日米和親条約が結ばれプロテスタント派キリスト教の宣教師が来日してきたことでスタートする。


もっともキリスト教自体昭和初期まで強い迫害を受けており、節酒ならまだしも禁酒についても理解を得られること難しく、初期の禁酒運動は難航を極めた。


それでも、プロテスタント派の伝道活動の広がりとともに、各地に少しずつ禁酒理念は認知されていった。


またキリスト教に大きな影響を受け、仏教の世界でも近代的宗教への脱皮を企図して「禁酒進徳」を掲げた反省会なる団体が組織される。


禁酒理念の革新

上記のような、方々から忌避され異端扱いされていた禁酒理念が一新され普及していくきっかけとなったのが、1885年の「万国婦人禁酒会」遊説員レヴィット夫人の来日と講演活動である。


レヴィット夫人が禁酒理念にもたらした大きな変化は主に三つ存在する。


  1. 文明国における禁酒運動の必要性が一般の人々にも普及する

  2. 禁酒運動が社会・政治活動の一環と認識される

  3. 禁酒運動結実のための団結の重要性が認められる


►1.文明国における禁酒運動の必要性が一般の人々にも普及する


これまでキリスト教の教義の中での禁酒理念であったものが、近代化と文明化を進める国にとって必要不可欠のものという認識が、エリート層にも普及していった。


特に、警察署などの公務員の中で広く支持される考え方となった。


►2.禁酒運動が社会・政治活動の一環と認識される


これまで宗教的な価値観を背景に、主に個人レベルの道徳として禁酒運動が進んでいったのに対して、レヴィット夫人の講演から禁酒運動の社会政治的側面を意識する運動家が多数現れた。


先に挙げた、反省会も例にもれず、社会・政治活動、さらに言うと日本帝国の独立を目的とし、そこに至る手段の一つとして禁酒・酒類全廃を掲げた。


►3.禁酒運動結実のための団結の重要性が認められる


レヴィット夫人の呼びかけに呼応するように、大小さまざまな禁酒団体が組織され、1889年時点でその数は63にも及んだが、一方で個々の組織の団結も重要視されるようになった。


禁酒運動を全国的な運動に発展させるため団結は、その後カリスマ的指導者安藤太郎によって達せられることとなる。


指導者の登場

安藤太郎は明治期に活躍した外交官である。


1886年にはハワイ総領事に任命され、ハワイの日本人移民社会の改善のために、本人は大酒家だったにかもかかわらず、禁酒を掲げ「在布哇日本人禁酒会」を組織した。


禁酒会にはハワイ在住日本人の三分の一もの人が加盟し、見事奏功した。


この出来事はすぐさま日本にも伝わり、1889年に夫人の病気療養のために帰国すると、1890年には「東京禁酒会」の会長に就任し、さらに新たに発足した「日本禁酒同盟会」の会長も歴任した。


未成年飲酒禁止法の成立

西洋化・近代化などの思想の流入とともに、わずか半世紀の間に進んでいった日本の禁酒運動であるが、1890年に日本禁酒同盟が発足すると、副会長となった根本正を中心に未年者飲酒禁止法の成立に尽力した。


未成年飲酒禁止というと今日では当然のように感じるが、根本が初めて法案を提出したのは1901年、実際に成立したのは1922年と20年以上歳月がかかっている。


実際に成立するに至った背景は、大学生の増加と富国強兵の二つの要素である。


大正期は、教育環境の向上にともない大学生が急増した時期でもあり、1897年に2000人程度であった大学生は、1926年には50000人以上になり、およそ23倍も増加している。


教育の進歩の結果、未成年にも相応の責務をという世論が生まれ、これが当時の富国強兵の理論と相まって未成年飲酒禁止法に繋がっていった。


今日の禁酒運動

1890年に組織された日本禁酒同盟は未だに存在している。


しかし、酒類全廃のような大風呂敷はなりをひそめ、依存症の克服、お酒との付き合い方など啓発的な側面が強く出ており、今の時代にそくしたあり方となっている。


参照サイト

『近代日本における禁酒運動─1890年東京禁酒会の設立まで─』後藤 新

『わが国の断酒運動の歩』公益社団法人日本精神神経学会

『日本の飲酒規制の成り立ち― 未成年者飲酒禁止法の成立過程 』酒文化研究所

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