11月も気づけば半ば。年の瀬がもうすぐそこまで来ている。
年が明けると、2019年は終わり、オリンピックイヤー2020年が幕を開ける。
2020年は、半世紀以上ぶりに東京で開かれるオリンピックの年であり、アメリカで大統領選挙が行われる年であり、アメリカで禁酒法が制定されてから100年が経つ年である。
アメリカの禁酒法については『100年前の高貴な実験』で見てきたが、他の国で禁酒運動がどのように展開していったかは見ていなかった。
今回は、shrbの生まれ故郷イギリスの禁酒運動を取り上げたい。
政治的動向から始まる禁酒運動
イギリスの禁酒運動は、宗教的・道徳的観念から始まったアメリカのそれと異なり、政治に深く結びついている。
最初の禁酒運動の動きは1800年代前半で、選挙法改正と社会変革を求めた労働者階級の抗議活動チャーティズムの一環として広がった。
1847年には、Band of HOPE(現HOPE UK)という団体が組織され、加入メンバーは薬用以外の一切のアルコール飲用を断つことが求められた。
1853年には、アメリカのメイン州法にならいイギリスでのアルコール販売禁止の立法化を目指した" United Kingdom Alliance "が組織される。
政治的活動として始まったチャーティズムが、禁酒運動を通じて宗教性を帯びてくるにつれ内部で反対する者の多くいたが、チャーティズムのリーダーWilliam Lovett氏が禁酒を通じた自己研鑽を唱えたこともあり、その後もチャーティズムと禁酒運動は広がっていった。
1840年代には、『バーにおけるノンアルコール史』でもふれたテンペランスホテルなども建設された。
世紀をまたぎ20世紀に入り、世界大戦に移行するとアメリカ同様、対戦が追い風となり、禁酒運動は広がっていった。
世界大戦と禁酒運動の結末
戦争が節制などを国民に促し、禁酒運動を加速させるという流れは、アメリカにおいてもあったように、イギリスでも事実であった。
イギリスでは、1914年に制定された領土防衛法 / "Defence of the Realm act" は、パブの営業時間の制限、ビールの加水による割増、追加税が定められ、1916年にはさらにブリュワリーやパブが国の管理下に置かれ、しばしば兵器工場として稼働させられた。
しかし、戦後の禁酒運動は国の経済状況と結びつきやすい。
経済不況の国において、雇用創出などの観点から本来大きなアルコール市場を捨て置くことは現実的でなかった。
大戦を通じて、アメリカに対して大きな借金を抱えることとなったイギリスも同様で、1920年には禁酒法制定を目指す政党も登場したが、第一次世界大戦後の経済不況や世界恐慌後のアメリカにおける禁酒法の破棄などで、実際に法令化されることはなかった。
アメリカとイギリスの禁酒運動の取組みは、様々な面で対比することができる。
宗教・道徳から始まり、政治色を強めていったアメリカに対する、政治から始めり宗教色を帯びていったイギリスの禁酒運動。
世界大戦を追い風に、大戦後の好景気にのって禁酒法が制定されたアメリカに対する、大戦後不況で実現されえなかったイギリスの禁酒法。
表面的に類似の出来事ながら、面白いコントラストを見せる禁酒運動について、今後も紹介していきたい。
参照サイト
"Rob you of your beer: The British fight against prohibition" WARWICK
"Teetotal Chartism" chartist ancestors
"Temperance: Its history and impact on current and future alcohol policy" Virginia Berridge
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