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嗅覚のメカニズム

更新日:2022年9月15日






前回の『味覚のメカニズム』に引き続き、今回は嗅覚に注目していく。


複雑な香りの世界

味覚と比べると、嗅覚はより複雑なメカニズムと言えるかもしれない。


それには、大きく二つの理由が考えられる。


  • 香りの世界に原臭が存在しない

  • 心理作用・個人差が非常に強い


►香りの世界に原臭が存在しない


色の三原色と言えば、赤・青・黄

味の五味と言えば、甘み・うまみ・苦み・酸味・塩味


と、視覚や味覚には根幹をなし、それらの組み合わせで全てを説明付ける基礎になるものが存在する一方で、香りの世界における基礎たる原臭は未だ見つかっていない。


原臭を探す取組み自体の歴史は深く、古くは古代ギリシアのアリストテレスにまでさかのぼることができる。その後も様々な人物が原臭を探求したが、実際に科学的に実証されたものは現在のところ存在しない。


►心理作用・個人差が非常に強い


感覚の客観性とはいかに担保されるか。客観性が担保されないのであれば、分子レベルでの科学的アプローチがどれほど意味があるのか。


こういった疑問は、主に心理学派からも出てきており、嗅覚に対するそのような分野からのアプローチも存在している。


特定の匂いへの嗜好が存在することからもわかるように、匂いは主観によるところが大きく、さらに個人間でもかつて好きだった香りをある経験を境に嫌いになることもある。


これは、「知覚恒常性の問題」と言われ、再現性を重視する科学において疑問視されている。


また、Aという香りとBという香りを別々に嗅いだときと、一緒に嗅いだときで全く異なる香りがするような場合、これまでの分子レベルのアプローチはどこまで有用なのか。


こちらは、「図と地の分離の問題」と言われ、喧々諤々論じられている。

深入りすると出口が見えなそうなので、今回はそんな意見もある、という程度にとどめておく。


進化からみるヒトの嗅覚

嗅覚を司る嗅覚受容体遺伝子の数は、動物によってさまざまである。


そもそも五感の発展は、その生物の生育環境、またそれに応じた進化の方向に大きく左右される。


嗅覚とは生物が水中から陸棲へと進化していく過程で劇的に進化してきた感覚である。そのため、魚類の嗅覚受容体はおよそ百個程度に対して、両生類で千個弱、哺乳類で千個以上ある。


しかし、哺乳類であっても水中で生活するイルカやクジラには十程度の嗅覚受容体しか存在しない。


受容体の数と同様に注目すべきなのが、偽遺伝子率。まり、本来の働きをしない受容体遺伝子の割合である。


先ほどのイルカやクジラの偽遺伝子率は90%を超えると言われており、彼らがエコーロケーションを獲得するために聴覚を進化させた結果ともいえる。


では、ヒトはどうだろうか。


ヒトを含む霊長類の一部は、進化の過程で視覚を発展させ、他の哺乳類が持ちえない三色視覚を獲得した。


その代償として、下図を見てもわかるように、ヒトは嗅覚受容体数も少なく、偽遺伝子率も高い。



次は、このような事実をふまえて、どのようにして400個足らずの受容体で、数十万種類とも言われる香気成分をかぎ分けているのかを最後に見ていく。


嗅覚のメカニズム

あるものの香りを嗅ぐと、


  1. 香気成分が鼻腔の粘液に溶け込み、

  2. 嗅繊毛に発現している嗅覚受容体と結合する

  3. 結合により、Gタンパク質共役型受容体が活性化され、

  4. 情報伝達物質セカンドメッセンジャー(cAMP)が放出される

  5. cAMPの上昇に応じて、イオンチャネルが開き、嗅神経細胞が電気信号を脳へ運ぶ


►1.香気成分が鼻腔の粘液に溶け込み、


鼻腔の粘液に溶け込み、上記のような過程を経て初めて人は香りを感じることができる。


逆を言えば、鼻腔に到達しないものは、たとえ香りを持っていたとしても感じることはできず、重すぎて空気中を飛んでこない成分について、通常香りを感じることはできない。


まさに、飛べない香気成分はただの分子、なのである。


一方で鼻腔に付着したのち、粘液への溶け込みやすさも匂いの感じ方に影響を与える。


►2.嗅繊毛に発現している嗅覚受容体と結合する


嗅細胞は、嗅神経から分化してできた細胞であり、先端に嗅繊毛という香気成分の受容器官を持っている。


これが味細胞のミクロビリーのように働き、香気成分を捕まえ嗅覚受容体と結合させる。


さて、この結合に、数百の受容体で数十万ともいわれる香気成分を判別し、一説には1億種類もの香りを嗅ぎ分けれる理由がある。


  • 香気成分と受容体は、複数 対 複数 で対応する


これがその理由である。


もし、受容体と香気成分が一対一対応で、味覚のように複数の刺激を個々にしか感じることができなければ、受容体の数=知覚できる香りの数となる。


実際は、香気成分、受容体どちらも複数と結合しうるので、その組み合わせおよびそれぞれの受容体の活性化の強弱により、多種多様な匂いを嗅ぎ分けることできるようになっている。


しかし、この受容体と香気成分の関係性の多くはまだ明らかになっていない。


そもそも嗅覚受容体が発見されたのですら1991年と日が浅く、香気成分との関係性が明らかになっている受容体はまだ20~40種程度しかない。


►3.結合により、Gタンパク質共役型受容体が活性化され、


味覚の甘み、うまみ、苦みと同様に嗅覚受容体はGタンパク質共役型受容体である。


ただし、味覚の場合は、Gタンパク質共役型受容体のなかでも代謝型グルタミン酸受容体というタイプであるのに対して、嗅覚の場合は、視覚などと同様のロドプシン様受容体が働く。


►4.情報伝達物質セカンドメッセンジャー(cAMP)が放出される

►5.cAMPの上昇に応じて、イオンチャネルが開き、嗅神経細胞が電気信号を脳へ運ぶ


上述のように、嗅細胞は嗅神経から分化した細胞であるため、味細胞のようにシナプスを介すことなく、神経へ情報は伝達され、脳へと進む。


ここにも、嗅覚のユニークさが存在する。


他の五感は、本能を司る大脳辺縁系に伝わる前に、理性を司ると言われる大脳新皮質を介する。しかし、嗅覚だけは、大脳新皮質を通過することなく、大脳辺縁系に到達するため、他の感覚よりも、本能にダイレクトに響くのである。



一度香気成分と結合した受容体は、しばらくの間、次の香気成分を受容できなくなる。このため、ずっと同じ匂いを嗅いでいると鼻が利かなくなったような状態に陥るのである。


▶関連記事を読む

『味覚のメカニズム』 https://bit.ly/32atrUr


参照サイト

『嗅覚の匂い受容メカニズム』 東京大学大学院農学生命科学研究科/ERATO 東原化学感覚シグナルプロジェクト 東原 和成

『 嗅覚受容体がにおいを認識する分子機構 』  におい・かおり環境学会誌  堅田 明子

"A Critique of Olfactory Objects" Ann-Sophie Barwich

『環境と会話して変化するやわらかなゲノム』 京都大学大学院理学研究科 郷 康広

"Human nose can detect 1 trillion odours" nature Jessica Morrison


1件のコメント

1 commentaire


大変興味深く拝見しました。蛇足ですが、一点補足させていただければ幸いです。


確かにイルカ(ハクジラ類)では嗅覚神経のみならず嗅球も欠いており嗅覚はほぼないと判断できますが、ヒゲクジラ類は退化はしているものの、嗅覚に必要な神経系を備えており、我々人と同様に空気中に揮発した匂い分子を感知できると報告されています。ヒゲクジラ類はイルカなどハクジラ類と異なり、飼育が困難なのでイルカよりも研究は進んでいませんが、全く感知しないというわけではなく、もしかしたらヒゲクジラ類はワインの豊かな香りも感じているかもしれませんね。


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